死の1週間前、父は鼻から入れられていたストマックチューブを自分で抜いてしまった。「そんなことをしちゃ、だめじゃない!」 父は静かな口調で「もういいんだよ」。ところが、以外にもストマックチューブを抜いてしまったことが幸いして、口から食事が出来るようになった。そして、驚くほどの勢いで回復していった。少なくとも、回復しているように見えた。
最後の日、朝食にカボチャの煮物を出した。父はテレビを見ながら、その大きなかたまりを箸でつまむと、まさに「パクッ」というようにひとくちで食べてしまった。 あっ、と思った。喉につかえてしまうのではないか。そして父は、それからしばらくして、ふっと死んだ。 もしかしたら、父はわざと大きいカボチャのかたまりを口にしたのではないか。その日、ヘルパーが来ると知って、もうこのあたりでおしまいにしようと思ったのではないか。潔いところのある人だったから、自分で潮時を決めてしまったのではないか。
それにしてもなんと程のよい死だろう。母にいざというときの心構えをさせ、子どもたちにほどほどの孝行をさせ、これ以上看護が続くと少々つらくなるかなという、まさにそのときに逝ってしまった。それも、死ぬ寸前まで、よくなりそうだという希望を抱かせたまま……。 それはそのとおりだと私にも思えた。父の死に際して、思い残すことはほとんどない。そして、これ以上は、これまでと同じような気持ちで看護はできないかもしれないという、まさにそのような時期にふっと死んでいった。程のよい死、だった。
わたしたちはよくなっているように思っていたけど、院長先生にはもうだめだということはわかっていらしたかもしれない。
一合の酒と一冊の本があれば、それが最高の贅沢。そんな父が、ある夏の終わりに脳の出血のため入院した。混濁してゆく意識、在宅看護。病床の父を見守りながら、息子は無数の記憶を掘り起こし、その無名の人生の軌跡を辿る。
ーーー生きて死ぬことの厳粛な営みーーー。
僕は 父とのこと 記憶 ほとんど無い。 遊んでもらったことも 叱られたことも 二人で酒を酌み交わしたことも 。。 戦時中に住んだ思い出の地 大連を 一緒に訪ねることも叶わなかった。 僕がバンコク赴任中に逝った。会えなかった。「合掌」