百46. いのちの停車場 その2

『父』神経内科専門の医師と、「娘」訪問診療の医師との会話 

神経因性疼痛にできることはない』「視床破壊術は?(痛みの認知に関する脳~視床~を壊す、手術による神経遮断術)」『あまり効かん』『怖い・・・目を覚ますのが恐ろしい。意識が戻るたびに、体に火を押し付けられたような痛みで絶望的な気持ちになる。行きているのが苦しい』『余計な延命治療はもういい。俺は十分に生きた』。骨折して 入院 約半年が過ぎた。 手術後の安静期に誤嚥による肺炎を起こし、その後 脳梗塞となり、それによって異痛症を起こし 歩くどころか食事もままならない。 

療養を継続するとして~退院。 そして 自宅での『父』と「娘」。『私を楽にさせてくれ 積極的安楽死を頼む。これ以上、痛みに耐えていると必ず錯乱する そういう姿はさらしたくないんや』「積極的な安楽死なんて、許されるはずないでしょ!殺人だよ。」医師として、亡くなる患者の背中を押す行為など出来ない。積極的な安楽死などありえない。それが職業倫理だ。 なのに今、患者の家族として新たな感覚を、『楽にさせてくれ』と訴える父の気持ちに応えたいと。 父が死を希望しているのなら、その苦しみを減らすのを手伝う行為を非難できない。でもそれは殺人、あるいは自殺幇助で逮捕される行為。誰にも言わずに処理することも出来る。でも医師である以上、そこは越えられない。 でも それは父の願いを切り捨てること。「命を縮める医師になろうと思ったことなんかない、そんな だって 人を救うことだけを考えてきたのに」。【倫理的ジレンマ】 

『年をとるっていうのは怖いことや。どうしようもない痛みで頭が錯乱しそうなのに、自分で死ぬ力すら残っていない。永遠の苦しみでなく、この痛みに終わりがあると決めることによって、死はむしろ生きる希望にすらなりえる』『人間には、誰もが自分の人生を自由に創ることが認められている。そうであれば、人生の最後の局面をどのように迎え、どのように死を創るかも、同様であるはずだ』『これは私自身の人生の最終章 『死を創る』ための処置だ』。『父』と「娘」『患者』と「家族」とが交わした話し合いは、長く辛い時間だった。

「それではこれより、永続的な疼痛緩和のために鎮静薬の調剤を始めます」

『ありがとう。最後に鎮静薬を連結して』「・・・では、鎮静薬の連結を開始します」。