三百45 「どうしたの?」って

 若年性認知症の人がモデルの映画

世間の認識(常識)は 認知症=なんも わからない なんも 出来ない人。と。 日常の生活の辛さを 出来ることがあることを 思いを 言葉に出来ない うまく伝えられない。 そのことが なんにも わからない人 出来ない人と 一括りにされてしまう。 その人は「違うんだ」と 声を上げられない。

・コロナで 面会もままならない。 父は帰りたいと 言う。 母も弟たちも 「父がそう言うなら連れ帰ったら」と言う。 でも 面倒見るのは 私・・・見られない!。 【 自分の生活を大事にして良い と思ってる。 そのうえで 出来ることを やるだけ 】。 じゃぁ 父は どうなっちゃう? 入所のまま? 父の気持ちは? 見捨てたと思う私は? 救われる? 【 その気持ち グッと 飲みこむ。  自分の家族を守る 】。 最善策で出来ることはほぼ無い 次善の策を ”最善策”に切り替えて。 でも それが 最善策か わからない。

・その人は わき目もふらず 目いっぱい 頑張って 一生懸命 歩く。 息も上がって 汗かいて 話も出来ないくらいに。 ある時 ふと。 汗もかいてないし 息も上がってない その人の・・・苛立ちを感じた。 その人は 僕に見えているコトの 何百倍もの辛さを うちに秘めている って。 何をするにも ちょっとしたことでも 思うように出来ない 不甲斐なさを その人が感じているのを 感じた。 感じたけど なんにも出来ない。 どこまでやっていいのか わからない。 僕の わかったことが その人が 本当に必要としていることなのか わからない。 

認知症初期のころ なんだかよくわからないけど なんかおかしいと感じているころ その人も家族も 訳がわからず 不安だけが募る。 そんな時にこそサポートや 適切な助言があると どれだけ安心につながるだろうと 思うことが有る。 でも 求められてないのに どこまで入り込んで良いのか? 受け入れてもらえるか? 「お手伝いしましょう」と 言っていいものか わからない。

いろいろなコト わかりたい。 でも ホントのとこ ホントの気持ちは わかりきらない。 どうしたら わかる? 気付きの枝を 根っこを 張り巡らして。 気付いたら 躊躇せず 「どうしたの?」って。