三百29 自宅介護 しません

「親の介護をしいないとダメですか?」【良いんです  しなくても!】 “親の介護をしなくても良い”ヒント/免罪符がもらえやしないかと期待して読んだのだけど、、、。 父親の要支援1から特養入所、父の介護状態の変化の様子、母と姉妹の父への介護とその心境の変化を綴ったもので、、、。 それでも “親の介護を“無理して”しなくても良い”と思わせてくれた。

2016.1、要支援1(最も軽いレベル)。

父は、転倒する頻度もさることながら、排泄の失敗も増えた。ボタボタと垂らしながら歩くトイレに至る道すじから便座まで、すべてがウンコまみれ、床もオシッコでびしょびしょ。

「お父さんが浴槽から出られなくなった」自力ではまったく立ち上がれない。筋力低下は、おそるべき勢いで進んでいた。父の動作確認をして、ちょっとびっくりした。「どう考えてもそこにつかまったら、危ないでしょ?というか、つかめないでしょ」というところをつかもうとする。とりあえず視界に入った小さな突起物や、確実に不安定なモノをつかもうとしたのだ。しかも一度つかんだところはなかなか離そうとしない。危険を察知することも回避することもできず、いったん動かした手足を元に戻す指令もうまく伝わらない。(義父も、、、そうだった)

デイサービスを始めたが、本人のやる気がなければ、スタッフも無理強いはできない。父は施設に行っても、体を動かさずに座っていただけかもしれない。機能が向上する気配はまったくなかった。ボケ防止だの脳トレだのといろいろ手配しても、本人がその気にならなければ、やらないという話。「馬に水を飲ませようとして、水辺に連れて行くことはできても、馬が飲もうとしなければ駄目だ」下手にお金をかけてグッズを揃えても、ハマらなければホント無駄になる。(義父も、、、そうだった)

認知機能が低下し、生活に支障をきたすのが認知症だ。でも、病院で認知症の検査は受けていない。検査にどれくらい意味があるのか、私には分からない。認知症と診断されても、特効薬があるわけでもない。検査を受けさせるべきなのか?世の中はそんなにきっちり線引きするものなのか? 介護認定は早めに申請すべきだが、認知症と断定すべきかはケースバイケースではないか。つまり、父は正式には認知症ではない。でも「自立不能な人」であることを家族で認識して、共有した。

2017.8、1年半後「要介護2」。

手足にまったく力が入らず転倒。床に転がった父を母は助けることもできず、老々介護の限界を目の当たりにした。これを機に施設入所を決意した。このままでは母が苦しむだけだ。十分な介護をされない父もかわいそうだ。私も自宅介護する気はさらさらない。母は複雑な心境だったようだ。初めての体験である独居の寂しさ、自分が陥る生活不安、介護ストレスからの解放感、施設に入れる罪悪感、父への気持ちが日替わりで交互に訪れる精神状態。

「在宅介護の弊害」本来は穏やかな人に暴言を吐かせてしまう。巷でよく報道される老老介護の結末、介護疲労の悲しい現実。その果てに「自宅介護は憎悪を生むだけ」。「自宅介護をするのは子どもの責務」Vs「ホームに預けたほうが健全」のせめぎあい。あるいは親の介護のなすりつけあい。

僕が有料老人ホームの施設長だったとき、見学に来られた家族(こども)に伝えたことを書き添えます。

多くの家族は、見学に来られても「親を施設に預けて良いのだろうか?」と 迷いを話されます。 私が施設長を務めさせて頂いたとき「ご家族が一緒に過ごすことが出来ると良いですね。もしまだ一緒に過ごせるのでは?と迷われているようでしたら もう少し頑張ってみて下さい。ですが、無理をされないよう。負担が限界と感じたときには 迷わず施設入所をお考え頂きたいと思います。そうすることが 距離をおくことで 落ち着いた気持ちになります。 そのうえで、ゆとりをもって入所先をお訪ね下さい。ご家族のそのお気持ちがご両親にも移り お互いに良好な印象を持った関係になると思います。 私たちは、そのためのお手伝いをさせて頂きます」。 

も一つ 新聞の人生相談から。《情緒不安定で体調不良を訴える母が「仕事を辞めて家にいろ」と迫る》。答え【優しさは諸刃の剣、相手の気持ちを和らげる効果はあるが、自分だけが辛さを背負ってしまうことになりかねない。物理的に距離をとるのが一番、「放置」することではない、お互いの生活を大切に生きていくために、心理的にも肉体的にも十分距離をとって、何かあったときに手助けするのが良い