三百20 一神教 / 儒教

 死について考えるのは、死ぬためではない。よりよく生きるためだ。

死んだらどうなるのか、死んでみるまでわからない。 それなら、死んだらどうなるかは、自分が自由に決めてよいのです。宗教の数だけ、人々の考え方の数だけ、死んだらどうなるか、の答えがあります。

この本では、キリスト教イスラム教、仏教などが 死後をどう考えてきたかが 紹介されている。でも そのことより 下記の文節に 目が止まった。 欧米の 一神教の人たちの【・いい意味での個人主義・身についた多様性】の根っこ/拠って立つ所を見たように思う。

一神教(・ユダヤ教キリスト教イスラム教):神が天地を創造した。人間ももちろん、神が造った。しかも人間は、一人づつ、神に手造りされた。個物として造られ、存在している。一人ひとり名前があって、個性がある。同じ人間はひとりもいない。「わたしはなぜここに存在するのか」それは「神がわたしを、このように造ったから」。ひとはほかの誰とも置き換えのきかない、かけがえのない存在だ。神の命令で生まれたひとは、神に義務を負っている。身体も、生命も、神から与えられたもの。神のものだ。住居や食べ物も、神の配慮であり恵みだ。神に感謝しないわけにはいかない。自分がここに存在することを、神に感謝すべきである。親に感謝するのは、神に感謝したあとでなければならない。

【介護】が必要になっても 子供が担うことを誰も求めない。子は、親の脛を齧ることなんて全く考えないし、ある年齢に達すると自立するのが当たり前と 考えることが 社会の共通認識になっている! 

中国の儒教:儒学の特徴は、一神教のような創造神(絶対神)のことは考えないこと。人間が生まれ 死ぬことを 神のはたらきと 考えない。人間のはたらきとして考える。人間のはたらきを統括するのは、政治。政治には、権威と正義と強制力がある。儒学は、政治中心主義である。そして 親のはたらき。親は子を産み、育てる。子は親を介護し、最後を看取る。子が生まれるのは親の恩、子が親の死を見届けるのは孝である。

中国の歴史(深くは知らないが)この文節が 今の中国を 言い現わしているように思う。 江戸幕府儒学朱子学)を奨励した そうだ。 中国の儒教の教えが 今も 尾を引いているのかな。 日本は。 

死はかならず、生きている途中にやってくる。でもそれが、終わりである。 途中なのに終わり。 これに立ち向かうには、いつ終わってもいいように生きる。 これを覚悟という。 いつ死んでもいいように生きる。