二百36 僕は”健全者”だから

さとうひろみさんのブログ「書くこと。生きること。」 3倍ノ愛ヲ持ツヒトの話 2022.07.05 

そのまま転載させて頂きます。 この方のブログを読んで 正直 何とも居心地が悪く なんでそんなに 尖った物言いをしなければならないの? 最近 「青い芝の会(脳性マヒ者による障害者運動団体)」に関わる本を読み 同じような居心地の悪さを感じました。 それは 僕が”健全者”だから、、、。 ”健全者”側から ”障害者”側を見て 高見からモノを考え ボランティアをしていたから、、、。 居心地の悪さは 知ったかぶりと 後ろめたさと 割り切れなさと ホントに分かってない”頭中”だけの理解と いろいろな思いが交錯しているから、、、。 まだ よく 自分のなかに取り込めていません。 僕は ”健全者”だから、、、。

「障害者に対しては、健常者はふつうの3,4倍の愛を持たないと無理」

先日参加した、<ダイバーシティ>をテーマに掲げたシンポジウムでの話。

会の中段、質疑応答の際に手を挙げた出席者から発せられた言葉に、私は耳を疑いました。発言者は、体を動かすことが出来ず発話が不自由な方と一緒にいることになった際、「何をしてあげても『ありがとう』の言葉もない」と、その方に対して強い不満を感じ、ゆえに「障害者に対しては健常者側の理解が相当必要になる」と感じたそうです。そしてこう締めくくりました。「障害者に対しては、健常者はふつうの3,4倍の愛を持たないと無理」。

健常者にも障害者にも、その人らしく自由に生きる権利は等しく保障されています。障害者だからといって、障害の無い人たちのやさしさや思いやり、愛や憐憫といったものによって恩恵的に生かされている訳ではありません。障害があっても、行きたい所へ行ったりメイクをしたりお酒を飲んだり本を読んだりしたい。みんながフツーに、自由に当たり前のようにやっていること。誰もがやっていいはずのことです。

でも私は、一人では自由に動けない。本意ではないけれど、自分以外の人に手を貸してもらわなければならない。それは、人らしく生きるための権利を保障してもらうための手助けや配慮の依頼であって、思いやりや同情や愛を発動してほしいと懇願している訳ではありません。

もちろん、気を配っていただいたとき、手を貸してもらったときなどには、自然と湧き起こる感謝の気持ちを相手にちゃんと伝えたい。だから私も、日頃からそんな場面では「ありがとうございます」と礼を言ったり会釈をしたりします。しかしその言葉も、1日24時間の中で何度も何度も口にせねばならず、さすがにグッタリしてしまうこともあります。"アリガトウ疲れ"の状態になってしまうのです。

そこで疑問がわきます。フツーの人が黙って当たり前にやっていることを、何も特別ではない同じことを私もしたいだけなのに、なぜ私ばかり感謝を言い続けなければならないのでしょうか。「そんなの言わなくていいのに」と思う人もいるでしょう。でも、実際の場面では「礼ぐらい言えよ」って不満そうな顔をされたりする。

なぜ「お願いですから自由に生かしてください」「生かしてくれてありがとう」と言い続けなければならないのでしょう。当たり前に暮らしたいだけなのに。

私はALS患者です。進行性で治らない神経難病のため、日に日に体が動きづらくなっていく中で、あと少しで発話も困難になり、自発呼吸が出来なくなるという避けられない未来に向かって毎日を生きています。現在、私は声を出して話すことができますが、発話が不自由な方のお話は私にとって他人事ではありません。伝えたいことがあっても自由自在に言葉にすることが出来ないということ。私なんかにはとても想像の及ばない、どれだけのジレンマ、悔しさ、もどかしさだろう。「3,4倍の愛を持たないと無理」と発言する人は、目の前にいるその人の気持ちをどれだけ考えようとしたことがあるのだろうか。自分とは違うショウガイシャめが、まともに動くこともできないうえに『ありがとう』も言えないなんてまったくダメな奴だが、寛容なオレ様のやさしさと愛をもって理解しガマンしてやろう、とでも、鼻を膨らませながら思ったのでしょうか。

私が発言者の言葉に唖然とし、その発言がこうした場でなされ何の反論も議論も呼ばなかったという事実自体の持つ意味をモヤモヤと考えているうちに、シンポジウムは予定時刻でシャンシャンと終了しました。

後になって思いました。私もきちんと挙手をして、発言者の言葉に対して抱いた違和感を伝えるべきだった、と。考えが上手くまとまらないうえに発言をする勇気もなく、手を挙げられなかった私自身の未熟さと意気地の無さに、今となっては恥いるばかりです。

障害者と健常者。アッチ側とコッチ側。無自覚のままに引いてしまう線が、お互い同じ人と人、という当たり前のことを見失わせ、単なる「違い」でしかないものを「優劣」にすり替えてしまう。シンポジウム全体を通して、自ら目の前に引いてしまっているぶっとい線に気づかない登壇者たちのキラキラした発言の数々に、胸に未消化のものばかりが残りましたが、お陰で大事なことを考えてゆくきっかけを得ることが出来ました。

まだこの先も考え続けてゆきたいので、もう少し生きたいと思います。