百85 まとまらない言葉を 生きる

金木犀の花香 街なかを 包み込む季節になりました。 いつもの年より半月ほど早いようですが コロナにマケルナ と ばかりに 今年も 咲いてくれました。 紹介します。「まとまらない 言葉を 生きる」

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著者は「被抑圧者の自己表現」を専門とする文学研究者。 この本の言葉の多くは 社会的弱者と言われる人たちに関わるコトです。 ですが、ボクにも響く言葉が 一杯でした。 ボクが長屋で働いていた時の気持ちに近い言葉が有りました。

「同じ時間、同じ場所で共に過ごしていても苦しくないし、人によっては波長が合って楽しい。コミュニケーションが取れる人もいたし、取れない人もいた。でも、それは、その時のぼくと先方との関係で 取れたり取れなかったりしただけで、たとえ取れない相手でも、なんとなく一緒にいるのは 決してつらいことじゃなかった」「知的障害のある人との意思疎通は、いわゆる「健常者」のやり方とは 異なる場合があり、相手が受け取りやすいサインを送ったり、相手のサインを読み取ったりすることに それぞれの流儀のようなものがあって、その感覚をつかむには 時間をかけた関係性が必要だ」。(ボクの日記 75. ふと気づいたコト) 

以下 ボク が 響いた言葉をランダムに抜き書きします。

・【言葉】言葉は、ややこしい。文脈や状況次第では、あらゆる言葉が 毒にも薬にもなる。まったく同じ言葉が 人を生かしもすれば殺しもする。 ・言葉には、疲れたときに そっと肩を貸してくれたり、息が苦しくなったときに 背中をさすってくれたり、狭まった視野を 広げてくれたり、自分を責め続けてしまうことを 休ませてくれたり・・・そんな役割や働きがあるように思う。

・【 叱咤激励 】ひとを励ます言葉「がんばれ」「負けるな」「大丈夫」は、時と場合によっては「人を叱る言葉」や「人と距離をとる言葉」に姿を変える。日本語には「どんな文脈にあてはめても『人を励ます』という意味だけを持つ言葉」は存在しないらしい。。。でも、ぼくたちは普段から「誰かの言葉に励まされる経験」をしている。やっぱり「言葉がひとを励ます」ことは確かにある。

・【 希待 】見返りを求めず 相手のことを信じてみようという態度のこと。悩みって、強引に解決を目指しても解決しない。むしろ、悩んでいること自体を認めてもらえるだけで、楽になれることも多い。いま悩んでいる人のことを尊重して「いまは悩んでいていいよ」と ただただ信じて寄り添う言葉。

・【人が生きる意味 】障害があろうとなかろうと、人は誰しも「自分が生きている意味」を 簡潔に説明することなどできない。「自分が生きる意味」も「自分が生きてきたことの意味」も 簡略な言葉でまとめられるような浅薄なものではないから。。。そもそも、議論の行末に責任のない人たちが、ある特定の人たちの「生きる意味」について 議論すること自体、その「特定の人たち」にとっては恐怖だろうと思います。

・【遠慮】障害や病気がある人の「遠慮」は、場合によっては命に関わる。日常生活の多くで 人手に頼るわけだから、介護者との関係次第では「ご飯を食べたい」とか「トイレに行きたい」といったことさえ「遠慮」してしまうことがある。。。社会・世間・他人様に迷惑をかけないように、身内が黙って引き受けることが美談とされた(今も)。ある程度の「遠慮」は美徳かもしれないけど、、。多くのひとは「遠慮で人が死ぬ」とは思っていない。でも「遠慮が死因になる」ことは、現実的に起こりうる  ことだ。

・【癒し】自分の力ではどうにもならないような 苦しい境遇に置かれた人がいたとする。「生きること」も諦めたくなるほど、つらかったとする。でも、自分で自分を支えながら、誰かに支えられながら、何かに支えられながら、なんとか、どうにか、それでも、今日という日を一日、生きていられたとする。「癒す」というのは、この「なんとか」「どうにか」「それでも」と つぶやくときの、そのつぶやきにこもった 祈りに近い感覚だ。

・【差別】差別されて苦しむ人に対して、しばしば「勇気を出して立ち上がれ」といった言葉がかけられることがある。言ってる方は励ましているつもりなんだろうけど、、、。差別されている人は精神的にも経済的にも追い詰められていることが多く、そうした人が孤立した状態で立ち上がれば、間違いなく社会から潰されてしまう。そもそも、差別と闘うことは恐ろしいことだ。そんな恐怖を前にして、人はそう簡単に「勇気」など出せるはずがない。だからこそ、差別されている人に「勇気を出せ」とけしかけるのではなく、勇気を出せる条件を整えることが大切で、そのためには孤立しない・孤立させない連帯感を育むことが必要だ。

・【自己責任】「言葉」には「受け止める人」が必要だ。「声を上げる人」にも「耳を傾ける人」が必要だ。でも、「自己責任」というのは、声を上げる人を孤立させる言葉だ。どれだけがんばっても報われなかったり、理不尽なかたちで傷つけられたりした経験(自らの行いの結果そうなったのだから、起きた事柄については自力でなんとかすべきということから)を「自己責任」という言葉で受け入れさせられてきた人たち。性暴力も貧困も病気も育児も被災も、どれも「自分に起こりえること」。

・私たちは皆、「要約」できない人生を、うまく言葉にまとめられないまま、とにかく今日という日を生きています。その「まとまらなさ」こそ愛おしいと思います。荒井裕樹