百95 『おかえりモネ』

「誰かの役に立ちたいと思うのはエゴではないか」という深い問いが有る。被災地の役に立ちたいと考える非被災者の多くが直面する問いでもあるだろう。「人の役に立ちたい」という思いに対して、「結局、自分のためじゃん」と軽く蹴とばされることがある。

「あなたの痛み 僕にはわかりません」 「でも、わかりたいと思っています」。  「震災では色んな人が、色んな経験をして、色んな考えをもちました。でも、本人とは違うので、完全にわかったりすることは無理だし、共感することはおこがましいことだし、傲慢(ごうまん)なことだし、安易に「気持ちはわかるよ」とは言えないとの共通認識は、僕らの中でありました」  「東北の人間ではない人間が、東北に思いをはせる中で、『人の痛みはわからないけど、わかりたい』という気持ちを持ってやってきました」

「残念ながら僕らは、お互いの問題ではなく、全くの不可抗力で 突然大事な人を失ってしまうという可能性を ゼロにはできません。未来に対して、僕らは無力です。でも だから、せめて今、目の前にいるその人を最大限 大事にする他に、恐怖に立ち向かう術はない」

「私…あの時…おばあちゃんを置いて逃げた。どう言っても、引っ張っても、おばあちゃん動いてくれなくて。海が見えて。1人で逃げた。その後、たぶん、大人たちが来て、おばあちゃんを助けてくれたんだと思う。でも…私は…絶対…自分を許すことはできない。ここで、自分が、何かの役に立てれば、いつか…」

「生きてきて、何もなかった人なんていないでしょ。何かしらの痛みはあるでしょ」――。 「痛み」と「葛藤」を、そして、その「救い」と「再生」を背中をさするように“手当て”しながら、安達氏が丹念に紡ぎ上げた。 被災地と非被災地、当事者と非当事者、東北と東京といった二分法で 私たちは分断されてしまいがちだ。その分断は、このドラマの大きなテーマでもあった。 東北から始まり東北に回帰しながら、苦しみを理解できなくても わかろうとすることによって、そうした分断を超えてつながりたいという祈りが、おかえりモネには 込められている。 

ボクの心の揺らぎを写し取ったような言葉です。ボラをしながら 自問自答しながら 「人の役に立ちたい」「結局、自分のためじゃん」。

「山と海はつながってる。まるっきり関係ねえように見えるもんが、何かの役にたてるってことは、世の中にはたくさんあんだ」  山も海も空も水を介してつながり、自然の大きなサイクルはめぐる。