50. 終戦の日

75回目の終戦の日

僕の両親は 満州・大連からの引揚者。 兄と姉は彼の地で生まれ 終戦の時は2歳と0歳。 リュック一つで舞鶴に戻ってきた。 荒川の支流の小さな川に面して建つ 父の実家に身を寄せ そこで僕は生まれた。  川べりに 大きな胡桃の木が有り、小石を投げつけ 実を落とし 岩の上で砕いて 食べたことを覚えている。 母の実家は 武甲山を目の前にした養蚕農家。 時々”発破”の音が響きわたった 石灰を採掘するためのダイナマイトで 山が低くなったそうな。 でも山容に大きな変わりはないようで 天気が良い日には 赤羽からもそれと分かるように見える。 縁側で 石臼を引いて”蕎麦掻”を食べた記憶が有る。 父は 秩父銘仙を扱う商店の大連の出店で働いていたとの事 帰国してからは 工場のボイラー技士として働いていた。 決して裕福ではなかったが ひもじさの記憶は無い。 母は ふっくらとした体形の 世話好きなひとだった。 母が ”白い階段を上がっていく”夢 を見てから 程なくして 僕は家を出た。 おふくろの味は 覚えていない。 上海勤務であったとき 大連旅行を持ちかけたが 父は「いいよ」。 「過ごしやすく とっても良い街」に 再び訪れることなく 逝った。

父 大正4年~平成6年(79歳) 母 大正8年~昭和44年(50歳)