吉田 晋悟 6月1日 6月から面会時間が30分になり、面会時間内であれば建物の外を散策することが出来ます。早速、6月1日の午前に面会の予約をしました。雨が降らないことを願いながら、外を散策する時のことを色々と考えています。
コロナ禍が始まる前のように、一緒に歩いて散策することはできません。私が語るだけで会話にはならないでしょう。眠っている時間が多いと聞いていますので、30分間ずっと眠った妻といることになる可能性も高いと覚悟しています。 妻と共に居ることができるなら、眠っていても構わないと思っています。子守歌代わりに二人でよく歌った賛美歌などを歌って時を過ごそうと思っています。
もし目覚めているなら、妻からの答えが無くてもたくさん語りかけようと思います。 このようなことを考えながら散歩していると、私の娘や息子が妻の胎内にいた時から、彼らに語り掛け、生れ出て言葉が理解できない彼らに向かっても盛んに語りかけていたのを思い出しました。彼らの人格を尊び、将来の幸せな人生を思い祝福を祈りながら語りかけていました。片言で声をだすと私に応答してくれたと喜んだものでした。時の経つのをも忘れて・・。
いま、年老いて病のゆえに私が語りかけても返事のない妻と向き合うときに、私は子どもたちに語っていたのと同じような思いを抱いているように感じます。私が語りまた歌い聞かせる相手はかけがえのない私の妻であり、長年苦楽を共にした私自身の一部分とも思っている尊い人格を持つ人です。
「あなたの妻には、胎児や嬰児のような未来はないではないか」と人は言うかもしれない。けれども、私と妻は人生の夕暮れから夜の後に復活の朝があると信じてきました。 明日私は、三人の幼いわが子の幸いな未来を信じて彼らに目を注ぎながら歌ってやったり語りかけていたように、妻の未来に希望を置いて、目を注いで語りまた歌う心積りをしています。
「どんなに認知症が進んでも、神に愛されている私の人としての尊厳は失われることはない」と言った妻を信じて、語った言葉の通り、妻を尊厳ある人として接することが、いま、夫として妻にしてやれることだと思っています。子供たち以上に、妻は私にとってかけがえのない存在です。
もし立場が逆で私が言葉を失い応答できなくても、眠ったままであっても、妻が語りかけてくれることを願います。語りかけてもらうなら、妻が私を大切な尊厳ある存在である想って呉れていると、私は心の深い所で知ることが出来るのではないかと思っています。