百87 気がかりな・・その2

守るべきもの Part 2

会社の経営を行っていく上で、まず守るべきものの順番づけを行いました。 おそらく、自分、そして家族、自分の会社が上位に来ているだろうと思います。 さて、自分と家族、そして自分の会社の順番付けはどうなっていますか? それと同時に社員さん、仕入先さん、得意先さん、金融機関さんの順番はどうなっていますか?

私も、私自身と私の家族、そして自分の会社を守るために仕事をしていました。 で、同じように私と一緒に仕事をする人たちも その方自身とその方の家族、そしてその方の会社を守るために仕事をしています。
取引先の方だって、仕入先の方だって、金融機関の方だって同じです。 ということは、取引先さん、仕入先さん、金融機関、それぞれの方々は 私が守るべきものなんて知ったこっちゃありません。

例えばの例ですが
1 我が子が誕生日だったとして、その日は早く帰る予定にしていましたが、取引先さんからどうしても今日までに何とかしないといけないという仕事を頼まれた時の選択肢。
2 来年のこどもの高校入学のために10年間ためておいた学資保険が100万円あったときに、明日振り出した支払手形のうちの100万円がどうしても調達できなかった時の選択肢
おそらく殆どの人が、1番は我が子を犠牲にし、2番は我が子の高校入学の備えを犠牲にします。
あれ? おかしいでしょ? 私は私が守るべきものを守るために仕事をしているのに、私が守るべきものが悲しむことを選択しているんですよ。 もちろん程度の違いはあります。そんなことを言っていたら、仕事なんてできないよ。 もちろんそのとおりです。

でも極論をいいますよ。
ひどいことをいうようですが、支払手形を受け取っている側の人にとってみたら、その支払手形が確実に現金になってくれれば、我が家がめちゃくちゃになろうと知ったことではないのです。
だから、守るべきものを守るために、あえて守るべきものを悲しませる可能性がある場合に、どこまでの悲しみまでは犠牲にするか、それ以上の悲しみはたとえ他の人に迷惑をかけようと味あわせないかを、考えられる限りのシナリオを考えて、その限界を決めておいてください。
もちろん、これは経営者にかぎらず、仕事をするときには必ず決めておくべきことだと思います。

さて、あなたの守るべきものがどこまで悲しんでいいかを、ちゃんと決めましたか?

百86 気がかりな・・その1

守るべきものは何か。

会社を経営していても、ある会社に所属しているいわゆるサラリーマンの方でも、役所で働いている公務員の方でも、働くこと、仕事をすることの意義の大きなものの一つに

「生きていくため」 というのがあります。 

生活のためですね。もちろん遊ぶためでも構いません。 何らかの事情で、大きな財産を持っているので、働かなくても食べていけるけど 働いているという人は除きますが。

それから 

「大切なものを守るため」 というのがあります。
では大切なもの、守るべきものというのは一体何でしょうか。 思いつくものを並べてみます。
・自分 ・家族 ・友達 ・同僚 ・上司 ・部下 ・社員 ・自分の会社 ・自分が所属している会社 ・仕入先 ・取引先 ・銀行 ・株主 ・地域 ・社会 ・国家 地球 ・他にもあるかもしれません。

これにあえて順序をつけてみてください。例えば自分のやりたいこととか、自分の思いとかいうのは、「自分」グループに入ると考えてください。

まずは会社のことを考える前に この守るべきものの順番を考えて記してみてください。
次に、では自分自身が実際に今現在行動する際に考える、大切なものの順番を考えてみてください。

どうですか?一致していますか? 違っていますか?
じゃあ、どの程度違っていますか? 逆になったりしていませんか?

もちろん完全に一致することは難しいと思いますが、この守るべきものの順番と、行動するときに大切に考えるものの順番を間違えると、問題になることがあります。

会社でも人生でもそうですが、いい時もあれば悪い時もあります。 いい時には、順番なんてどうでもいいことだと思うのですが 悪い時には、この守るべきもの、行動の時に大切なもの、このギャップが大変なことになります。

ぜひまずは一度整理してみてください。

百85 まとまらない言葉を 生きる

金木犀の花香 街なかを 包み込む季節になりました。 いつもの年より半月ほど早いようですが コロナにマケルナ と ばかりに 今年も 咲いてくれました。 紹介します。「まとまらない 言葉を 生きる」

f:id:wakasan1214:20210916164944j:plain  金木犀      f:id:wakasan1214:20210915183426j:plain

著者は「被抑圧者の自己表現」を専門とする文学研究者。 この本の言葉の多くは 社会的弱者と言われる人たちに関わるコトです。 ですが、ボクにも響く言葉が 一杯でした。 ボクが長屋で働いていた時の気持ちに近い言葉が有りました。

「同じ時間、同じ場所で共に過ごしていても苦しくないし、人によっては波長が合って楽しい。コミュニケーションが取れる人もいたし、取れない人もいた。でも、それは、その時のぼくと先方との関係で 取れたり取れなかったりしただけで、たとえ取れない相手でも、なんとなく一緒にいるのは 決してつらいことじゃなかった」「知的障害のある人との意思疎通は、いわゆる「健常者」のやり方とは 異なる場合があり、相手が受け取りやすいサインを送ったり、相手のサインを読み取ったりすることに それぞれの流儀のようなものがあって、その感覚をつかむには 時間をかけた関係性が必要だ」。(ボクの日記 75. ふと気づいたコト) 

以下 ボク が 響いた言葉をランダムに抜き書きします。

・【言葉】言葉は、ややこしい。文脈や状況次第では、あらゆる言葉が 毒にも薬にもなる。まったく同じ言葉が 人を生かしもすれば殺しもする。 ・言葉には、疲れたときに そっと肩を貸してくれたり、息が苦しくなったときに 背中をさすってくれたり、狭まった視野を 広げてくれたり、自分を責め続けてしまうことを 休ませてくれたり・・・そんな役割や働きがあるように思う。

・【 叱咤激励 】ひとを励ます言葉「がんばれ」「負けるな」「大丈夫」は、時と場合によっては「人を叱る言葉」や「人と距離をとる言葉」に姿を変える。日本語には「どんな文脈にあてはめても『人を励ます』という意味だけを持つ言葉」は存在しないらしい。。。でも、ぼくたちは普段から「誰かの言葉に励まされる経験」をしている。やっぱり「言葉がひとを励ます」ことは確かにある。

・【 希待 】見返りを求めず 相手のことを信じてみようという態度のこと。悩みって、強引に解決を目指しても解決しない。むしろ、悩んでいること自体を認めてもらえるだけで、楽になれることも多い。いま悩んでいる人のことを尊重して「いまは悩んでいていいよ」と ただただ信じて寄り添う言葉。

・【人が生きる意味 】障害があろうとなかろうと、人は誰しも「自分が生きている意味」を 簡潔に説明することなどできない。「自分が生きる意味」も「自分が生きてきたことの意味」も 簡略な言葉でまとめられるような浅薄なものではないから。。。そもそも、議論の行末に責任のない人たちが、ある特定の人たちの「生きる意味」について 議論すること自体、その「特定の人たち」にとっては恐怖だろうと思います。

・【遠慮】障害や病気がある人の「遠慮」は、場合によっては命に関わる。日常生活の多くで 人手に頼るわけだから、介護者との関係次第では「ご飯を食べたい」とか「トイレに行きたい」といったことさえ「遠慮」してしまうことがある。。。社会・世間・他人様に迷惑をかけないように、身内が黙って引き受けることが美談とされた(今も)。ある程度の「遠慮」は美徳かもしれないけど、、。多くのひとは「遠慮で人が死ぬ」とは思っていない。でも「遠慮が死因になる」ことは、現実的に起こりうる  ことだ。

・【癒し】自分の力ではどうにもならないような 苦しい境遇に置かれた人がいたとする。「生きること」も諦めたくなるほど、つらかったとする。でも、自分で自分を支えながら、誰かに支えられながら、何かに支えられながら、なんとか、どうにか、それでも、今日という日を一日、生きていられたとする。「癒す」というのは、この「なんとか」「どうにか」「それでも」と つぶやくときの、そのつぶやきにこもった 祈りに近い感覚だ。

・【差別】差別されて苦しむ人に対して、しばしば「勇気を出して立ち上がれ」といった言葉がかけられることがある。言ってる方は励ましているつもりなんだろうけど、、、。差別されている人は精神的にも経済的にも追い詰められていることが多く、そうした人が孤立した状態で立ち上がれば、間違いなく社会から潰されてしまう。そもそも、差別と闘うことは恐ろしいことだ。そんな恐怖を前にして、人はそう簡単に「勇気」など出せるはずがない。だからこそ、差別されている人に「勇気を出せ」とけしかけるのではなく、勇気を出せる条件を整えることが大切で、そのためには孤立しない・孤立させない連帯感を育むことが必要だ。

・【自己責任】「言葉」には「受け止める人」が必要だ。「声を上げる人」にも「耳を傾ける人」が必要だ。でも、「自己責任」というのは、声を上げる人を孤立させる言葉だ。どれだけがんばっても報われなかったり、理不尽なかたちで傷つけられたりした経験(自らの行いの結果そうなったのだから、起きた事柄については自力でなんとかすべきということから)を「自己責任」という言葉で受け入れさせられてきた人たち。性暴力も貧困も病気も育児も被災も、どれも「自分に起こりえること」。

・私たちは皆、「要約」できない人生を、うまく言葉にまとめられないまま、とにかく今日という日を生きています。その「まとまらなさ」こそ愛おしいと思います。荒井裕樹

 

 

 

百84 にんちしょう 「陰性」

f:id:wakasan1214:20210723201359j:plain 「陰性」

先日の「アミロイドPET」検査結果です。

定性的評価結果「陰性」定量的評価結果「9.98CL」、そして別日に行った認知機能検査と臨床評価も「陰性」、MMSE 26/30 でした。 (9.98CLがどの程度のものなのか 分かりません)

Dr「 “陰性” 安心しましたか?」 このテストに選ばれた時、認知症の可能性のある人が選ばれると思っていたので、その時の方が緊張してました。今日は両方の心の準備をしてきました。

「陰性」は、取り敢えず 現時点では認知症ではないと言うコト、手放しに “よかった!”とは思いません。

「陽性」であったとしても、現在の状態であれば 軽度と思いますし、”認知症”発症までは10~20年ほどかかるでしょうから、72歳の僕は寿命との競争です。それと認知症者でしか出来ない情報発信ができますので、そのコトに意義を見出したいと考えていました。

キューブラ―ロスが “死の受容”の5段階を書いてます。 ➀否認と孤立 ➁怒り ➂取り引き ④抑うつ ⑤受容。 別の人が「癌は、病気になってからも自分らしく生き、いよいよというときまで「自分」でいることができ、最期にじぶんらしく逝くことができる病気です」と書いてました。 でも 認知症は違いますよね。 自分が自分でなくなっちゃう のですから、 癌のひとのように 受容 と言う状態に 至れない。 治療も完治薬も無い状態で、 ですよね。(全ての人が 受容出来ているとは、、? 苦しんでいる人の方が多いかもしれません)。

この状態では 認知症が疑われる人に診察を勧められないですよね。 Dr「本人や家族からの依頼でなければ、診察も受けにくい」 ケアマネのボラ活動をしているのですが 相談を頂くまでは こちらから 先走るコトは控えた方が良いですね。 家族にそれらしいこと(認知症じゃないですか的な)を言っても、家族が それを受け止められないと かえって拙い事になりそうですね。 「他人が受診を勧めるのは難しい」。 水頭症のような認知症状は 原因を治療すれば改善すると聞きますが 素人には原因が水頭症か?分からないです。 「医者でも難しい ですよ」。 Dr 脳神経内科医としての立場を離れ 気さくにお話を頂きました。

関連する日記 ・百75 にんちしょう アミロイドPET ・百73 認知症テスト ・百56 候補者に選定

百83 M I Ps  ぱらりんぴあん

    f:id:wakasan1214:20210904232553j:plain  「よろしく おねがいします」 

ボクが 少しだけお手伝いしたひとから頂いた 手紙です。 ”たったの11文字”。 ボクも この文字 書きます。 でも 彼には これを書くことが どんなに大変なコトか。 いちじ いちじ 気持を込めて書いているコトを 感じます。 

一事が万事 こういう事ではないか。 ボクの日常は ほとんど なんの 思い入れも無く 動いて行っちゃってる。 でも 障害のあるひとは なにをするにも ”障害があるコト”から 始めなければならない。 街を歩くのも バスに乗るのにも レストランに入るのにも ほんとに何をするにも いつも「すみません」の 気持が 言葉が   ある。 そして その気持ちが理解されないコトも ある。 残念ですが 

   f:id:wakasan1214:20210904231652j:plain パラリンピック

今の ボクの Most Inpression Persons  パラリンピックの選手 パラリンピアンのみんなです。 Most なのに の複数って 文法でどうなのか? 分かりませんが、 とにかく みんな! なのです。

オリンピックの選手からも沢山の感動を頂きました。 パラリンピックの選手からの感動は なんか 厚み 熱量 気迫 が 数倍ちがうのです。 それは スタートラインに立つこと自体が 大変なのだからと 思います。 障害がある そのコトを受け入れなければならない気持ち的なコト。 そのうえで 障害を補ってなお頑張りをしなければならない身体的なコト。 そして 健常者以上の人のサポートを必要とする そのコトへの抵抗と感謝のストレス的なコト。 それらのコトを 越えて やっと スタートラインに立っているからではないかと 思います。 パラリンピックが終わって  障害のコトも終わっちゃうのかな 。 さも 分かったふうな言い様をしましたが 今 ボクが 思う せい一杯の 気持ち 言葉です。。 

僕の Most Inpression Person 内村航平

内村さん 過酷な練習を重ねられて 大変とは思いますが ”努力が裏切られることはないということを” 是非 ”証明して下さい”。 みんなのためにも 「よろしく おねがいします」 

百82 草の根 ボランティア

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草の根 ボランティア K さん

桐ヶ丘中央公園でのウォーキング、週1~2回程度 曜日を決めずに気ままに 続けてます。 そんななか いつも ひとり 黙々と鍬をふるう人が 気になってました。 去年11月 たまたま 立ち休みの様子を お見かけし 声かけしました。(お疲れではないですか?) それから40分ほど 話し込みました。 

桐ヶ丘公園内の草取り。 鍬で 丁寧に 草の根まで 取っている と言っても ひとりで行うには広すぎる。 取っても取っても 尽きない。 とっても 大変。 木陰と言っても 夏は暑い! 「なぜ?」と お聞きすると 「たいした理由はないけど 強いて言えば 自分の健康のためかな」。 「純粋なボランティアですね」。 もう一つ、 テレビの健康番組を写真に撮り ファイルにして関心ある人に お話されている。 後日 見せて頂きましたが 病気のタイプごとに 何冊にもまとめられてました。「健康啓蒙ですね」

その後は お会いすれば 挨拶をさせて頂きます。 他にも 公園内を散歩 買物で行き来する人々 ほとんどのひとが 声をかけていきます。 気軽に 手を休めて お話をされてます。 ボクの 迷いながらのボランティアへも 見習うべきコト たくさん 頂きます。 (写真掲載も ご了解頂きました)

 

百81 努力は・・ 結果は・・

「今となってはもう終わったこと」内村航平 f:id:wakasan1214:20210820232009g:plain

 ――今回の五輪は内村選手にとってどういうものに

普通に努力が裏切られるということを知れたということですね。人生の教訓として。今までこんなことはなかったので、ポジティブな面ではないですね、特に得たものは。後輩が躍動したとかそういうことだと思うんですけど、自分にとっては別にそれはあんまり関係ないことなので、自分にとっては努力が普通に裏切られることを知れたというだけだったなと思います」

――次に持っていくビジョンやプランは

「練習をやる以外ないです。やっぱり普通に努力は裏切られるというのを知ったからこそ、もっとやらなきゃいけないと思うし、やっぱり努力が裏切られることはないということは、また証明したいかなという。やっぱりあのときは、五輪の前はもうちょっとできたであろう、努力が裏切られたのではなく、自分が努力できていなかったんだというのを証明するために、世界選手権をやる感じなのかなと思います」

――体操への向き合い方やこれからの姿勢に変化は

「変わらないです特に。裏切られたのか、足りなかったのか、どっちなんだろうという、そこがわかっていないだけなので。別に努力はしていないわけじゃないし、果たして結果が出なかったから あれを努力と呼ばないというのか、果たしてやりきっても結果が出ない、どっちなんだろうという。わかっていないというのが本当に正しい表現かなと思います」 

「努力は裏切らなかった 結果はついてきた」とメダルを取った選手は 言います。 では 入賞出来なかった選手は 努力しなかったのかな イヤ そんなことはない みんな それこそ 血の滲むような努力をしていた と思う。  結果が すべて! ですかね?。 

先日、「こんなに頑張っているのにシャカシャカ歩けるようにならない」の ひとに、 ボク「頑張っても歩けない、でも歩きたい。 なら もっと頑張らないと。 でも画期的に歩けるようにはならないよ。 年齢での体の衰えは避けられないし、若い人の10倍も頑張っても出来ないかもしれない」。 

状況を全部説明しきれませんので・・・ コクな言い方・・・ ですかね?